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知識と思考を分かつもの

エッセイ

「特許翻訳に必要なのは知識ではない」とは、よく言われることだ。

 

「本当に必要なのは知識そのものではなく、知識を繋げて活用できる思考力である」というのがこの一言の言わんとしていることだ、と私は解釈しており、この一言はなかなか含意に富むものだとも思っている。

 

ただ、一方で素朴な疑問もある。

「そもそも、知識と思考は別物なのだろうか?」ということだ。

 

何を言う、そもそも言葉が違っているし、「知識」と「思考」なんて、全く異なった概念だから、どうすれば同じ道理になるかを小一時間聞かせてもらいたい、とあなたはお思いになるかもしれない。

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そして、そのご意見はごもっともである。

しかし、よくよく考えてみて頂きたいのだ。

 

例えば、特許翻訳の話ではなく恐縮なのだが、

東京から大阪まで行きたいと思ったとする。

 

ここで、私たちが一般的に持っている「知識」といえば、

・東京から新大阪までは新幹線で行ける

・羽田空港から伊丹空港まで飛行機で行ける

といったものではないだろうか。

 

これらは、紛れもない「知識」である。(或いは「常識」と言ってもいいかもしれない)

では、これらの2つを比べてみて、どちらのほうが早く目的地に到着できるのか?

ということを考えてみると、これはれっきとした「思考」となる。

 

そもそも、どこからどこまでの時間を調べるのか、ということを決める必要があるので、例えば東京駅から大阪駅までとしよう。

この時、例えば図書館で時刻表を借りて、東京駅から新大阪駅までの新幹線の時間を調べる。
そして、そこから大阪駅までの乗り換え時間や移動時間も調べると、新幹線を使った場合の時間が分かる。

これは半分以上、「思考」そのものよりも「調査」といったほうが良いだろうが、ここでは便宜上「思考」ということにしておこう。(少なくともこの一連の作業は「知識」ではなことは明確だ)

 

それでは次に、飛行機を使った場合を考えてみると、

そもそも東京駅から羽田空港にはどうやって行くのか?ということを調べないといけないし、
飛行機に乗る手続きの時間を調べたり、飛行時間を調べる必要もある。
そして、伊丹空港に着いてから大阪駅までも、どのようにアクセスするかを調べる必要がある。

 

これらも、断片的な知識を組み合わせて「思考」(+調査)をしているということができるが、問題はこの後である。

これらの比較を終えて、結果として「新幹線を使う方が、大阪には早く着く」ということが分かったとしよう。

ここで、この「新幹線を使う方が、大阪には早く着く」ということそのものは、あなたにとって新しい「知識」の1つになっていないだろうか?

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つまり何が言いたいのかというと、「思考」をした結果得られるのは、ある種の「知識」であるケースが存在するのである。

または、例えば何かをつかって何かをできるのか、という「知識」を組み合わせて「思考」をしたとして、結果的に「それは不可能」ということが分かったとしたら、「これを使ってこれをすることはできない」という「知識」を結果的に得ることになる、というのもある。

では、これらのケースで最初に使った「知識」と、後から入手した「知識」とは、同じものを意味するのだろうか?と言えば、それは恐らく違う。「もともとある」知識と、「後から得た」知識は別物である、というのは、ある意味「先天的な知識」と「後天的な知識」という「差」があるから、これらを別のものとして区別することは妥当だ、という考え方もできるし、個別の知識を組み合わせた(思考)結果として得た「知識」は、前のそれよりも上位概念である、という考え方もできる。

 

つまり、例えば「先天的知識」を「知識A」として、「後天的知識」を「知識B」として取り扱うこともできる、というわけだ。

この記事の文頭で「そもそも言葉が違っているし」とさらりと書いていたが、これは実は落とし穴であるとも言える。なぜなら、先で定義した「知識A」と「知識B」のように、本当は階層や意味づけが違うものとして存在しているのに、1つの言葉でまとめられている場合もあるからなのだ。

これは、「言葉」というものを担体で取り扱うことがほぼ不可能であることを物語っているのだが、気をつけないといけないのは、私たちが普段使う言葉の多くが「本当は別の意味を持っている」のに、作為的又は無作為的に「一緒くた」にされている、という事実である。

例えば、「仕事」「友情」「幸福」「恋愛」等の言葉がよい例だ。これらの言葉は、辞書的意味は当然のことながら一義的だが、人それぞれ、これらの言葉の定義は違っているはずだ。

 

例えば、あなたにとって仕事とは「お金を稼ぐための手段」であるかもしれないし、「自分を成長させる機会」であるかもしれないし、「社会と関わる接点であり、勉強の場」であるかもしれない。恋愛だってそう。交際に何を求めるのか、ということも人それぞれ違うし、「交際中なのに○○するのはダメ」という考えの人もいれば、「交際中でも○○は大丈夫」という考えの人もいよう。

 

即ち、最初に「言葉ありき」ではない。まず先にあるべきは「イメージ」であり「概念」(ぼやっとしたものでもよい)なのだ。しかしこれがどうも、今の世の中では倒錯しているような気がしてならず、人それぞれイメージや価値観は違うのに、何の定義を予め行うこともなしに「仕事とはこういうものだ」というような、「自分の土俵への無意識下での引きずり込み」が頻繁に行われているようでならない。

(尤も、社員を採用する際などには、ある程度「我々が考える仕事とは」という価値観を伝える必要はあるので、こういうことを根本的に否定している訳ではない。ただ、あまりにも無意識の中ににこのような言葉が埋め込まれてしまうような世の中になっているのは、間違いない)

 

何が言いたいのかというと、自分なりに一度考えてみる、言葉を定義してみる、という作業が何事にも不可欠である、ということだ。これは即ち、最初に述べた「思考」に他ならないわけで、結局のところ「思考をする」ことに価値はあると私は考えているのであるが、大事なのは、「思考」をした上で、その結果としての「知識」をある程度ストックすることだ。

 

思考というのは、ある種「フロー」である。AとBの組み合わせを、Cという理論に基づいて、Dという要素も加味して考える場合、A、B、C、Dを頭の中で動かしつう、結果的に「ストック」としての新しい知識を頭の中に格納することになる。

 

そしてもう1つ大事なのは、「考え方」には幾つかパターンがあって、これはある程度「ストック」できる、ということだ。

 

単純に言えば、AとBを足してみる、AとBをかけてみる、AからBを引いてみる、AとBにCも加えてみる…というような、幾つかのパターンがあるわけだ。(論理学で学ぶことができる幾つかの方法も、排中律など「パターン」が存在する)

 

つまり、元々の知識に、ストックしてある思考法を引っ張り出して「フロー」としての思考を行い、結果として新しい知識がストックして増える、ということを、我々の頭は行っているとも言えるし、ここまでくると、どこまでが「知識」でどこまでが「思考」なのか、という分断は、非常に難しいものになってくる。

 

しかし、だからこそ「自分なりに定義をしてみる」ということが必要なのだ。なぜなら、今回の記事で私が書いたことも、1つの「定義」に過ぎないのだから。

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