シラミを食べる日本人?

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今回は、英語、いや、もっと言うとコミュニケーションに関する考察を行ってみたい。

おそらく、あなたを含めて大半の日本人は、
英語の発音を苦手に思っているはずだ。

 

中学校の時に授業で習いはしたものの、
ろくに喋れるわけでもなく、ましてやネイティブの聞き取りなんて…

という方が、ほとんどではなかろうか。

 

ところで、中学校の英語の授業の最初で必ず習うといっていい内容が、

「r」と「l」の発音の違い、である。

「r」は、舌を丸めて口の中にどこにもつけず、
ややこもった発音になり、

「l」は、舌先を上の歯茎の裏側につけて発音をする、

という風に習ったのは、恐らく全国共通であろう。

 

そして、この話が出てくるときに必ずといっていいほど
くっついてくる談話が、「rice」と「lice」の話である。

ここまでで、ピンとこられた方も多かろう。

 

ようは、日本語では「r」と「l」は同じ音として認識するが、
英語では全く別の音なので、

日本人が
I eat rice
といいたいところを、不慣れな舌の動きにまごついて
I eat lice
なんて言ってしまった矢先には、

ネイティブからは「日本人はシラミを食べるのか!」
と驚かれる(か、笑いもののタネにされる)、

という話である。

この話はよくできていると思っている。

実際、こんな怖い勘違いを生じさせてしまうのであれば、
できないなりに精一杯頑張って、「rice」の発音を練習しよう、
なんてことを、殆どの中学生は考えるであろう。

 

しかし、である。

このような勘違い、果たして日常で起こりうるのだろうか?
ということにすごく疑問がのこる。

 

何が言いたいのかというと、
「コミュニケーションとは決して点ではない」ということだ。

まず、最低限の素養があるアメリカ人(というより、英語話者一般)であれば、
「日本は米文化だ」という話は、テレビや本を通して、

上の談話が行われる前に、「常識」として知っているはずだ。

 

それはあたかも、我々日本人が
「イギリスの食事は手抜きでまずい」
「アメリカの食事は肉。そしてサイズが桁違い」
「インドではカレーを素手で食べる」

 

というような、
「偏見が混じっているかも知れないが、どこかで聞いた話」
と同じである。

 

とすると、である。

果たして、riceを間違ってliceと言ってしまった日本人の話は、
「どこかおかしい」と考えるのが普通ではないだろうか?

もちろん、日本ではイナゴを焼いて食べる地域もあるため、
lice(シラミ)を食べるところがない、とは100%断言できるわけではない。

 

しかし、英語が拙い日本人と話をしてくれるような親切な外国人が、
I eat lice.を真に受けて飛び上がる、なんてことになるだろうか?

これはつまり、「コミュニケーションには前後の文脈が関係する」ということである。
あるいは、一般常識が関係する、と言ってもいい。

 

シラミを食べる文化圏なんて聞いたことが無いし、
おそらくこの人は「米」を食べる、と言いたいんだろうな。

 

そういう風に、様々な情報を使って「妥当に判断」するのが人間であるし、

そういうことができるからこそ、コミュニケーションが成り立つ、といっても過言でない。

 

別の例を出すと、日本人どうしで
「味噌汁の具で何が好き?」と話していて、
「チヂミ」と答えたら、誰でも「?」となる。
そして、そこから「もしかしてしじみのこと?」と聞けるためには、

・チヂミは韓国のお好み焼きみたいなもので、味噌汁の具にはならない
・チヂミと音が同じで、味噌汁の具になりそうなものは…しじみだ!

という、知識や思考が必要となるわけである。

つまり、中学校でもはや教典となっている「シラミ談話」は、
裏を返せば「それ自体に意味はない」ということである。

机上の空論、と言ってもよい。あくまであれは、
周りの全ての情報をシャットダウンした上での「死んだ対象」を見ている、
ということにすぎないのである。

 

今考えてみると、なぜこのような
コミュニケーションは線である
と当たり前のことが、中学校などで言われないのかが不明だ。

そもそも、英語だとか日本語だとかの言語は、
他者とのコミュニケーションに必要なものなのである。

そして、コミュニケーションとはまさに動的なもので、
その動きの中で、お互いの考えや言葉に色彩や意味が付いていくのである。

 

だから、その動きを捉えて、ある程度の時間の長さを考え、
前後とのつながりを加味することでしか、その「一点」を意味づけすることはできないわけだ。

そういう意味では、もしかすると今世間で言われている「英語力」なるものは、
そういう動的なものを一切排除した「死体」を扱う力でしかないのかもしれない。

 

なお、この文章を書いていて思いだしたのが、福岡伸一さんという分子生物学者が書いた「世界は分けても分からない」という新書だ。

この本では、著者の専門であるタンパク質の精製など、生物学における「世界の分断」と「世界の繋がり」について鋭い洞察がなされているのだが、

もしかすると、タンパク質もコミュニケーションも、
根底に存在する概念は似たようなものなのかもしれない、

と、ふと思ったのであった。

 

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)

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