今月の初めから、大学生の就職活動(選考会?)が解禁になったようなのだが、これについて、脳科学者である茂木健一郎氏のツイートが話題になっているようだ。
昨日、新幹線で品川駅に帰ってきて、改札を出たら、20人くらいの「就活生」の女子がいた。みな、例の白いブラウスに、黒いジャケットみたいなのを着ていた。歩く私の視野に、彼女たちの笑顔が飛び込んできた。彼女たちは、笑っていた。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2016年6月2日
何度目かの驚きだったのだが、白いブラウス、黒いジャケット以外にも、髪型や、メークの仕方まで、何からなにまでみんな同じだった。しかも、髪の毛はみんな黒かった。私は、無言のまま、品川駅近くの雑踏に入っていった。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2016年6月2日
それから2時間後くらい。私は街を歩いていた。近くにある女子大の授業が終わったらしく、たくさんの学生が出てきていた。彼女たちの服装は色とりどりで、髪の毛もさまざまな色をしていて、ヘアスタイルももちろんそれぞれだった。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2016年6月2日
さて、全体主義でもなく(おそらく)、独裁者もいず(おそらく)、おまけに、個性や独創性が大切だと(おそらく)言われている先進国(おそらく)で、いかに、就活というマジックワードで、色とりどりから、白黒同じ髪型同じメークへの変貌が起こるのか、私は理解できないし、理解したいとも思わぬ。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2016年6月2日
就活については、そもそも、新卒一括採用が現代の人権原理から見て「違法」だと私は繰り返し指摘している。さらに、就活の際に、みなが判を押したようにコピーの格好をすることが、現代において異常なことだと、私は繰り返し発言している。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2016年6月2日
誰もルールを決めているわけではないと、訳知り顔の大人は言う。しかし、リクナビにせよ、マイナビにせよ、あるいは就活生にリクルートスーツを売っている業者にせよ、今の「惨状」(敢えて「惨状」と言う)をつくっている責任を感じるべきだし、改善するための努力をすべきだと私は思う。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2016年6月2日
就活のシステムをつくっている大人たちは、この国を、どうしたいのか。全体主義の国にしたいのか? 没個性の国にしたいのか? 日本の就活文化が良いなんて、ぼくは全く思わないし、こんな没個性の慣行は、一瞬でも早くぶち壊してほしい。そのための必要な行動をとるよう、現場の大人たちに要請する。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2016年6月2日
この手の話は、私が学生の時に同じようなことですごく悩んでいたので分かるのだが、今、個人事業主ととなりある程度の稼ぎを得られるようになって思うのは、「力なき正論は死と同じ」ということである。
私はもともと、この手の話は下らないと思っていたし、それは今でも変わらない。そういうわけもあって、大学時代は「まともに就職活動を行った」経験はほぼないの(実際は、少しだけ取り組んで本当に下らないことが分かったので止めた)。
ただ、今になって思うのは「こういう正論を振りかざすことに力はあるのか?」と言うことだ。
確かに、大学時代にしか使えない「新卒」というカードを使えないと「良い企業」に修飾できない、というのは、傍から見れば「裸の王様」と同じくらい、いや、それ以上に下らない話である。
しかし、現実問題としてそれで世の中が回ってしまっている訳である。そして、「新卒一括採用がなくなった時」の青写真が、バラ色の予想図が、これら「反対論者」からは微塵も伝わってこない。
「対案のない反論は無意味」という考え方がある。人の意見を批判するのは結構。しかし、前提として「自分の考えを出してくれ」という、ビジネスの世界ではいたって普通の考え方であるが、就職活動を含む、この手の「反対論」には、このような「対案」が全く示されていない。
もちろん、こういう既存の枠組みに対して反論を行う人達は、私も含めてある種の「壊し屋」であろうし、「レールに乗っからないほうが上手く生きていける」人種であることは、明白であろう。逆に、こういう「システム」がないとどうしても生きていけない輩も大勢いるので、そういう人達にとっては「新卒一括採用」というルールの上で勝負するほうが、上手く生きていけるはずである。
さて、少し話がズレてしまったが、問題は「新卒一括採用が下らない」のであれば、代わりにどんな世界を提示できるのか、ということだ。
私が当時を振り返って思うのは、学生の立場から見たら「具体的に自分でどうやって稼ぐのか」ということを、肌感覚で知っておきたかったということだ。なるほど、就職活動は確かに下らない。しかし、就職活動をしないとなれば自分で何か業を起こさねばなるまいが、それを行ったとして、就職した時よりも良い条件でビジネスができるのか?自分でマネタイズはできるのか?そういう自信がなければ、どれだけ現実世界が下らなかろうと、他に取り得る選択肢が無いわけだから、結局は大衆に迎合して生きて行かざるを得なくなる。(メルマガでは少し話しているが、結局私が大学卒業時に就職をしたのは具体的な「代案」を見つけられなかったからである)
或いは、私の場合は「稼ぎ」を重要視しているが、もっと広い意味で「QOLの高さ」というのを対案として示すことができるか。就職活動は下らないから、やらない。とすれば、田舎に暮らして半自給自足的な生活で暮らしていけるのか。言葉を換えれば、そういうライフスタイルに自分自身が魅力や価値を感じるのか。先を行く大人は、そのような世界を「憧れの対象」として提示できるのか。
ぶっちゃけて言えば、「就職活動をして会社員になる」という通過儀礼を行っていくことに魅力を感じる大学生は皆無に近いはずだ。新聞を見れば過労死の話やリストラの話が盛りだくさんであり、「会社員になる」ということは、ゆくゆくは自分もその「一員」となる可能性があるわけだ。
それに、大学生は周りの大人を見て、「仕事をする」ことにどれだけ魅力を感じるのかも疑問である。所詮、説明会や会社訪問をしても、「大人」が見せるのは都合のよい一面だけであるし、会社の担当者から夜9時に電話やメールがかかってきた…なんて経験が一度でもあると「こんな時間まで仕事をしているのか」という、げんなりした気持ちを自然と持ってしまうのが、「親鳥を見て育つ雛」の当然の成り行きとも言えよう。
改めて言う。今我々が示さなければならないのは「ベターな対案」である。「カウンターカルチャー」ではないが、「カウンターワールド」といってもいいかもしれない。即ち、「下らない就職活動の世界の反対側に位置している別の世界」を、何も盛ることなく、そのまま伝える必要があるのだ。
これは何も、「片手間で百万稼ぐ」というような胡散臭い話・世界ではない。私の場合は現在特許翻訳だが、何らかのビジネスを自営で行って、自分を強化しながら世界を切り開いていく、世の中をドライブしていくことの醍醐味を、私たちフリーランスや起業家達が、まざまざと見せつけないといけないのではないか。そう思っているわけだ。
今、自営業として数年間生きてきたことをベースにして話すと、「別世界は確実に存在する」し、その世界は「確実に楽しい」ものである。これを大学生の時に知っていればもう数年速く結果を出していたとは思っていて、それについては悔やんでも悔やみきれないことなのだが、だからこそ、私と同世代や、若い人達にはそのような世界を少しでも早く気づいて頂きたいのだ。
私は、自分の人生を切り開いていくのに必要なのは「精神的自由」であると思っている。お金は勿論大事だし、人間関係も大切だ。しかし、その根底にあるのは、自分は何を大切と思っているのか、他人と自分は何が違うのか、というようなことを考えていくことによって得られる「精神的得自由度」であるのではないか、と思うのである。
「就職しないと生きていけない」という考え方は、精神が不自由である証拠だ。
「お金がないと生きていけない」というのも、精神的に束縛されている。
「他人の目線を気にする」というのも、精神的にはどちらかと言えば不健全な状態であろう。
問題は、自分が知らない世界を少しずつ知ることによって、自分の現実的選択肢を徐々に増やしていくこと、そして実際に行動をすること(行動できること)である。
そして、「ああ、本当に就職活動は下らないですね」ということを腹に落として、自分の言葉で発することができるような人間が1人でも増えること。これが最終的な到達地点でもあるわけである。
精神的自由というのは、究極的には「就職活動って下らないけど、そういう選択をする人も入るよね」という風に、ある種の「多様性の許容」のことである。「新卒一括採用は悪だ!」と言うのは、これも実は「精神的自由度」が足りていない。
自分の世界を広げること。肌感覚を増やすこと。そして結果的に、精神的自由度を高めて、過去の自分の殻を破っていくこと。それこそが、本当の「自由」の意味する世界だと私は思っている。
もし今回の話に何か感じるものをあなたがお持ちになったのであれば、是非メールマガジンにもご登録頂きたい。私の本業の話にとどまらず、様々な話題を扱っているので、新しい発見や考えの機会となることを請け合いだ。
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