私がまだ幼かった頃

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先日インターネットの海を遊泳していると、「ブルートレイン」についてのエッセイが書かれてあった。
ブルートレイン。
この言葉を知っている人はどれくらいいるのだろうか。
知らない人のために簡単に説明をすると、かつて日本を走っていた夜行列車(夜汽車)の総称だ。夜をイメージした青い車体の客車を機関車が引っ張って走っていたので、その外観からこういう名前が付いた。略称は「ブルトレ」。
もしかすると、この名称よりも「北斗星」「トワイライトエクスプレス」「カシオペア」という列車名を挙げたほうが、ピンとくる方が多いかもしれない。中には乗車をした方もいるだろう。(ここでも説明をしておくと、これら三列車は「豪華ブルートレイン」と呼ばれ、ワンランク以上上のサービスを提供し、「旅すること」そのものにバリューを付けた列車だった。今は全て、廃止になっている)
とはいえおそらく、「ブルートレイン」という言葉を聞いたことがある人は、思っている以上に多いはずだ。というのもこのブルトレ、つい数年前まで日本を走っていたわけなので、ニュースや雑誌でもことあるごとに取り上げられていたし、どこかでその名称を耳にしたり目にしたりする機会は、そう少なくはなかった、と思っているからだ。
しかし、その姿を実際に目にしたことがある人は、多くはないと思う。というのも、運行時間が夜から朝にかけてになるのと、運転路線もおおくは無かったため、撮影や乗車目的で無い限り、その姿を目にするのは難しいと思っているからだ。

前置きが長くなった。

何を隠そう、私はこのブルートレインが好きだ。

いや、好きだった、と言ったほうが適当かもしれない。

そして、ブルートレインに限らず鉄道が好きだ。世間的には「オタク」と呼ばれる部類に属し、鉄道に乗ったり、写真を撮ったり、駅弁を食べたり、切符を集めたりするのが趣味の一つでもある。(最近は、そこまで心血注いでいるわけではいのだが)
確か、ブルートレインの存在を知ったのは小学校4年くらいの頃だったと思う。西暦にして1999年。
なぜこんなことを覚えているのかというと、当時図書館で借りて読んでいたある鉄道雑誌の特集が「夜行列車1999」というようなもので、当時日本各地を走っていたブルートレインを取り上げていたのだ。そして、その写真や編成の美しさに惚れた私は、「大人になったら乗りたい」と、幼心に思ったこともはっきりと覚えている。
しかし、既にその本を手にしたときには、あまりブルトレの先行きは芳しくなかったと言える。というのも、その時の特集直後に、東京と熊本を結ぶ「はやぶさ」と、東京を長崎を結ぶ「さくら」を併結運転にして、途中まで(から)一本の列車として運転することが決まっていたからだ。
平たく言うと、これは「乗車率の低下による実質的な削減」と言える。
というのも、14両編成で走っている「はやぶさ」と、同じく14両編成で走っている「さくら」をそれぞれ短くして、8両+6両で併結運転する、というものだったからだ。つまり、編成を半分にしても需給バランスが取れるほどには、乗車率は高くなかったのである。
(ちなみに、併結直前の「さくら」は、7連+7連で運行して、途中で切り離しをして東京から長崎と佐世保の二つの終着地を結んでいた。これを、併結後は長崎行きだけにしたのだ)
(こちらも余談であるが、2016年現在、「はやぶさ」は東京と東北・北海道を結ぶ新幹線の列車名、「さくら」は大阪と九州を結ぶ新幹線の列車名である。一体どれくらいの人が、「はやぶさ」「さくら」と聞いてブルートレインを頭に思い浮かべるのだろうか)

つまり、1999年現在で、徐々にブルトレは需要が低迷しており、右肩下がりとなっていく始まり、となっていたと言える。(その数年前には、東京から熊本・長崎を結んでいた「みずほ」が廃止になっている。既に「リストラ」は始まっていたのだ)

当時小学四年だった私は、「大学まで進んだらアルバイトをしてお金を貯めて、ブルトレを使って旅行に行こう」とぼんやりと思っていた。なにせ、ブルートレインは移動距離が長いので、必然的に運賃が高くなる。それに、特急料金や寝台料金も別に支払う必要があるし、当時は格安航空会社なんてものもない。だから、遠くの地まで出かけてから、同じほどの時間とお金を使って、地元まで戻ってくる必要がある。日数も、夜をまたいで移動するのであれば、週末の2日間では向こうに行ったきりで潰れてしまう。
とにかく、経済的にも物理的にも、ブルートレインを使えはしない、ということを、義務教育を終えるくらいまではずっと思っていた。

相変わらず、「大学にいったらブルトレに乗ろう」と思っていた私だが、見過ごせないニュースを目にすることになった。

元祖ブルトレ「あさかぜ」が廃止。
時にして2005年の春、私が中学を卒業する直前のことだった。
これは当時、少しは世間を賑わせたニュースだった。というのも、日本のブルートレインはこの「あさかぜ」から始まっている。その「元祖」が、利用客低迷のために廃止になる、というのは、ある意味「禁じ手」のように移ったからだった。
(同じ時期に、「さくら」の廃止も決まった)

さすがにこれは私にもショックだった。全く予想していなかった出来事だった。
この時は、ただただ悲しかった。「元祖ブルトレが廃止か…」というショックがあった、とはいえ、まだ日本各地にはブルトレが残っていた。「あと三年したら、乗りに行けるかな」くらいにしか思っていなかった。

更に転機となるのは、同じ年の12月である。

高校一年だった私は、いつものように学校を終えた後、駅で電車を待つまでに、道沿いにある書店に立ち寄った。そこで、いつも立ち読みしている鉄道雑誌を手にして目を通していた。

そして、目を疑った。

その号の特集では、「次の春のダイヤ改正の内容」が取り扱われていたのだが、そこで、二年連続でブルトレの廃止が決まったことが書かれていた。
これは、さすがに危機感を覚えた。というのも、実はその年の秋にも、関西と九州を結ぶブルトレが廃止になっていて、「あさかぜ」の廃止から、ガタガタとブルトレが消えていっている流れがあったからだ。
「このままいくと、毎年のペースでブルトレは消えていくな…」

そして結局、次の春、その列車の廃止直前(一週間前)に、なんとか乗車しにいくことにした。列車の名前は「出雲」。これまた、東京と山陰を結んでいるので、関西在住の自分にとっては、「わざわざ乗りに行く」列車の部類であった。
なんとか切符を確保して、3月12日だったか、関西から青春18きっぷを握りしめて、兵庫、岡山、鳥取(米子)と経由して、出雲号の出発地である「出雲市」駅まで到着。そこからブルトレに乗車して、約13時間の旅を満喫したのだった。
一つ覚えていることと言えば、「出雲」には元食堂車を開放したラウンジのような車両があったのだが(といっても、ただテーブルと椅子があって、持ち込んだご飯を食べれる、といったようなもの)、そこで、区画が同じになった乗客と一緒に駅弁を食べながら話をしていた、ということだ。
確か、20代の人が1人いたのと、驚いたのは自分より若い小学生の子が2人いたことだ。保護者が同伴していたような気もするが、片方は一人旅をしていたような気もする。はっきりと覚えていないのだが、とにかく「すごい行動力のある子もいるもんだ」と、びっくりした記憶がある。

そして翌朝、7時頃に東京に到着した後はひたすら東海道を西に下って、地元に帰還。

とにかく、この時の経験でブルトレは一層好きになってしまった。こんな素敵な体験ができるのだ。早く大学にいって、自分でお金を稼いで乗ってみたいな、と。
それから一年半ほど経っただろうか。私は受験のさなかにあった。翌年の春に受験を控え、毎日部屋に籠もって勉強を続けていた。大学に進んで学びたいことは決まっていたし、やりたいことの中には「ブルトレに乗る」ということもあった。

あれは確か、11月の下旬だったと思う。休日だった記憶があるのだが、その日の朝刊にいつものごとく目を通したら、面食らってしまったのだ。

それは、「翌春に、ブルトレが一斉に廃止」というものだった。
そしてあろうことか、メスが入ったのは関西発着のブルトレである。何より驚きなのは、一気に五本が廃止、ということだった。

今でも覚えているが、廃止になるのは
・あかつき(京都~長崎)
・なは(京都~熊本)
・日本海一往復(大阪~青森)(二往復あるものを一往復に削減)
・北斗星一往復(上野~札幌)
・銀河(東京~大阪)
北斗星は違えど、他の四本は全て関西が起点になっている。

実は、「あかつき」や「なは」は、受験が終わった次の春休みにでも乗りに行こうかと考えていたのだ。しかし、ダイヤ改正の期日は、後期受験日程が終わる次の日。つまり、夜に出発するブルトレは、その前日が最終列車となるから、仮に前期受験で落ちて後期受験を受けるとすると、ほぼ乗車するのは不可能である。

この新聞記事は、ある種のスクープだったようで、JR各社からダイヤ改正の正式要項が発表されていたわけではなかった。なので内容の担保は100%されているわけではなかったのだが、結局はそのスクープ通りに列車の廃止が発表となった。

この新聞を読んだときは、さすがにキッチンでむせび泣いてしまった。
もちろん、この改正でブルトレの全てが廃止になるわけではなかった。
しかし、何年も前からの夢がこんな形で消えてしまうことと、何よりも受験とダイヤ改正の日程の組み合わせが神様の悪戯にしか思えず、自分はこういう星の元に生きているのだろうか、ということを冗談抜きで感じてしまったわけである。
もしかすると、私にとって「将来は約束されているものではない」ということを身をもって考えるようになったのは、これら一連の出来事が契機となっていたのかもしれない。
そして、当時の私は、これほどかと言うまでに自分を責めた。

行動できなかった自分が悪い。

お金や時間や身分を言い訳にして行動できなかった自分が悪い。
傍から見れば、中学生や高校生でもらえるお小遣いの額なんて知れている。

この時期は、勉強にエネルギーを注ぐのが建前であり、大義名分ということも通念だ。

だから、自分でも「こんな状態なら、行動できない」と言いたくもなった。

しかし、本当にそうだろうか、とも自問したのだ。
本当に好きなものであれば、どれだけ自分の環境が悪くてもなんとかやってみたいと思うはずだ。

お金がなければ借りるとか、時間が無ければ学校や会社を休むとか、

「本当にやりたいのなら」、ありとあらゆる困難を排して、なんとか実現するように行動するはずである、と。

そういう部分が自分は弱いのだ。結局、そこで行動しない自分が悪い。全て自分の責任。
今振り返ってみると、悩みと自虐の権化のような存在だったとは思う。ただ、これは本当に思っていたし、必要以上に自分を責めていた、とも思う。
そして、この文章を書いていると思うのは、今なら、たとえ受験があろうが、前記受験で落ちようが、廃止直前のブルトレの切符を押さえて(あるいは、センター試験が終わった頃の日程で切符を取って)、その二日間なり三日間は、そちらの世界に入っている、と思う。
極論すれば、受験はもう一年やることもできる。
しかし、無くなるものはもう二度と戻ってこない。

今なら、そういう天秤のかけ方をするかもな、と思った。

この時の経験が大きいからか、自分の中では「やるかやらないかで迷ったらやる」という不文律のようなものができあがってしまっている。
結局、何かを「やる」に際しては、一瞬の後悔が付いてしまうのだ。これにこれだけお金をかけていいのだろうか、これにこれだけ時間を使っていいのだろうか、これをやってどれだけのことが得られるのか。
他方、何かを「やらない」ということは、一生キズを引きずるということでもある。「あの時こうしておけばよかった」というのは、心の中にずっと残ってしまうしこりであるし、結局死に際に、その選択がよかったのか、ということを考え直してしまうような気もする。
もちろん、今思っても、当時のメンタリティなどは詳しく覚えていないし、当時の行動や「行動を起こさないこと」といった1つ1つの選択も、それがよかったのか、悪かったことなのか、なんてことは判別がつかない。
というより、人生は無限の「今」の連続なのだ。「これをやったら後悔するか」なんてことを考えているのも、たった「今」の出来事なわけで、そもそも自分の人生が今後どうなるかなんて、全て自分で決められるものではない。
だからこそ、何かを判断・決断するときの指標の一つとして、「気になっているのであれば、取り組んでみる」ということを持っているのは大事だと思うのだ。
畢竟、お金も時間も、この命が消えてしまえば存在しなくなってしまう。最後はゼロになってしまう。そう考えると、取り組まない理由なんて、ないに等しいのだ。
そうすることによって、せめて自分で納得して、自分の人生を選択することはできる。そしてその時、「人は真に自由である」と言えるのではないのだろうか。

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