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資格の“格”は登録免許税で決まるのか?―「国家資格ヒエラルキー論」への実務家としての疑問

Moraine Lake in Banff National Park - Canada

登録免許税の“額”で、資格の“格”が決まる?

あるとき、SNS上でこんな趣旨の投稿を目にしました。

「国家資格には“格”がある。登録免許税が6万円の資格は最上位、3万円以下の資格は中級以下。格下資格者は、格上資格者に敬意を払うべきだ。」

正直、この言葉を見たとき、目を疑いました。
一瞬、「ネタ投稿かな?」と思いましたが、どうやら本気の発言のようです。

私はこれまで、法人経営の立場として、税理士・司法書士・弁理士といった士業の方々と実務の中で数多く関わってきました。また、特許翻訳という専門性の高い職業に就いていることから、職能や倫理観に対する敬意は人一倍持っているつもりです。

だからこそ、このような「登録免許税=格」といった価値観には、強い違和感を抱きました。
それは、制度の正確な理解を欠いた誤解であると同時に、資格制度そのものの社会的意義や、士業としての倫理的責任を軽視する姿勢に思えたからです。

本記事では、こうした“資格ヒエラルキー”論がいかに誤ったものであるかを、制度的・倫理的な観点から冷静に考えていきたいと思います。

 

登録免許税とは何か ― 資格の「格」ではなく、制度の「仕組み」

ときおり「国家資格には“格”があり、登録免許税の金額によってランク分けされている」といった主張を見かけることがあります。しかしこれは、制度の実態に対する誤解、あるいは恣意的な解釈に基づくものと言わざるを得ません。

そもそも登録免許税とは、国家資格を取得した後に、法律で定められた登録手続を行う際に課される税金のことです。これは「資格の価値」ではなく、「登録業務にかかる行政コスト」に基づいて設計されています。

たとえば、以下のような金額が定められています(2024年現在):

資格名 登録免許税
弁護士 60,000円
公認会計士/司法書士/税理士/宅建士 30,000円
行政書士 25,000円
社会保険労務士 9,000円
看護師 登録手数料のみ(登録免許税なし)

このように、登録免許税の金額は制度設計によるものであり、社会的価値や資格の序列を示すものではありません

特に、人命を預かる看護師のような資格が非課税であることを考えても、「税額=格」とする論は破綻しているとわかるはずです。

 

「格」では測れない国家資格の役割

資格の“格”を議論する前に忘れてはならないのが、国家資格とは、社会のさまざまな問題に対応するための専門的な分業体制の一部であるという事実です。

弁護士や司法書士のような法務系資格は、国家機関との接点が多いために制度上の登録手続も厳格で、結果として登録免許税も高額です。しかしそれは「格が高い」という意味ではなく、制度運用における事務コストが高いという構造的な事情によるものです。

一方、看護師や介護福祉士、保育士のような資格は、登録免許税が不要またはごく低額ですが、日々の業務では人の命や暮らしに直結する高い専門性と責任を伴っています

国家資格は“格”ではなく、“機能”で見るべきです。
登録免許税という金額で測れるのは、資格制度のコストであって、資格者が現場で果たす役割の重みではありません

 

資格は自己肯定感の“万能薬”ではない ― 「格」にこだわる心の背景

今回のような“資格ヒエラルキー”の発言を見たとき、単なる制度の誤解というより、その人の内面にあるコンプレックスや承認欲求が投影されているのではないかと感じました。

人は誰しも、過去の劣等感や不全感を抱えることがあります。そして、それを乗り越えるために資格を取る――これは決して悪いことではありません。
しかし、いくら資格を取得しても、その内面の空白が埋まらなかったとき、「自分は格上だ」と誰かの上に立つことで安心を得ようとする心の動きが現れることがあります。これは心理学でいう“補償作用”の一種です。

私自身は、法人の代表として税理士や司法書士、弁理士と日々やり取りをしています。本当に信頼できる専門家ほど、自らの肩書きを盾にせず、むしろ相手に敬意をもって接する姿勢があると感じています。

そうした姿勢こそが、国家資格者として求められる「ノブレス・オブリージュ」――特権には責任が伴うという倫理観ではないでしょうか。

資格とは、誰かを見下すためのものではなく、誰かを支えるためにある。
その原点を忘れてしまったとき、「格」という言葉は空しく響きます。

 

“資格”を見る目を、少し変えてみませんか?

私たちはつい、資格や肩書きの「見えやすい部分」に目を奪われがちです。
しかし本当に大切なのは、その資格が誰のために、どんな現場で、どのように役立っているのかということではないでしょうか。

「登録免許税が高いから格が上」
「この資格の人は、この資格の人より偉い」

もしあなたが、そうした見方に触れたり、自分でもそう感じてしまいそうになったときには、
その資格が果たしている役割や、背負っている責任について、ほんの少し想像してみてください。

資格とは、他者より上に立つための札ではなく、
誰かの人生や社会の仕組みを支えるための道具であるはずです。


では、「士業の格は登録免許税の額で決まる」と発信する士業を、顧客や見込み客はどのように見るでしょうか。
ビジネスにおいて、自分の価値観に共感する人を集め、それ以外を切り捨てるという考え方も確かにあります。ですが、もしその“共感の軸”が、「金額の多寡」でしかなかったとしたら――
その人に共鳴するのは、同じく人間関係の機微よりも金銭的な優劣を重視する人たちではないでしょうか。

そのような価値観のもとに集まった人たちが、果たして信頼関係に根ざした持続的な仕事を成り立たせることができるでしょうか。
答えは、おそらく「NO」です。

国家資格とは、国民生活の安定や公正を守るために制度的に与えられた“責任”です。
その意義を履き違え、「専権業務」を特権と勘違いして振る舞う姿勢には、国家資格者としての倫理的な適格性すら問いたくなります。

 

まとめ ― 資格は“道具”であり、“序列”ではない

登録免許税の額は、資格の制度設計上の一要素に過ぎず、それ自体が「格」や「序列」を示すものではありません。
国家資格は、それぞれ異なる専門性と社会的責任を担い、誰かを支えるために存在する横並びの制度です。

資格があることで誇りを持つことは素晴らしいことです。
けれど、それをもって他者を見下す理由にはならないはずです。

資格の“格”を語る前に、まずはその資格をどう使っているかを自らに問いかけたい。
その問いかけこそが、本当の意味で資格者としての“品格”をつくるのだと思います。

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